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思念No.006 サブタイトル画像

 最近、「いっそ死んだら楽になるかも知れない」という陳腐な考えが浮かぶような出来事が、私の身の上に起こった。25歳まで生きてきて、これまでそうした考えが一度も頭をよぎらなかったというのは、割合幸福な人生を生きてきた証であるかも知れない。勿論、大した度胸もなく、心底思い詰めるほどの真面目さも持ち合わせていないような人間であるから、本気で死のうと思ったわけではない。ただ、己のおかれた困難な状況から脱する一手段としての死が、かつてないほどに短絡的に脳裏をよぎったという、それだけのことだ。そして現在は、強固な理性と生来のケチっぷりが、「こんなことで死んでは色々と勿体ない」と私に思わせ、そんな馬鹿げた考えを選択肢から追いやっている。

死というものを意識した時、自分とこの世を繋いでいるものは一体何なのか、ということについて思索することになった。そこで、以下に自分なりの結論を書きたい。

「こんなことで死んでは色々と勿体ない」というのが、私が死を選ばなかった理由であると書いた。勿体ないというのは即ち、私が死ぬことによって数々の損失が生じるということだ。まず、私自身が将来達成することが予想される成果――例えば、病院に就職したとして、私の治療により機能を回復する患者が生じることは不思議ではない。医療界全体から見ればわずかな成果であるかも知れないが、機能回復を待つ患者にとれば、治療手段の中から潜在的にその可能性のひとつを失うことは、明らかな損失であると言えるだろう。医療従事者を志す者としては、マンパワー不足の昨今、客観的にそれは惜しいと思う。私が関与することで寝たきりを免れる人間が一人でも存在し、「先生、最近はテーブルで食事をとれるのが嬉しいんですよ」と微笑んで語る患者の姿を、私が今後見られる可能性があるとすれば、ここでくだらない理由で死ぬことは理にかなわない。

また、私は再受験を経て現在の道を志しているため、新卒で就職した場合に得ていたはずの収入を犠牲にしている。高い機会費用を支払って現在の身分を得ている以上、私は卒業後は機会費用をも回収する以上の働きをしなくては元が取れない。回収しない、つまり費用をかけるに値するだけの人生を送らない内に私が死ぬ場合、費用は費用でなく、単なる損失として計算される。損失を出しただけの人生ってどうなのか。非常に勿体ないことだと思う。

そして、私の死により多大な精神的苦痛を味わうことが予想される人々は、ざっと概算して30人程度存在する。多大でもないが、それなりに精神的苦痛を味わう人はもっと存在するかも知れない。それらの人々が、精神的苦痛により業務に支障をきたすことは、社会全体において利益をもたらさない。
例えば私の相方はSEを生業としているのだが、私の死によって多大な精神的苦痛を味わうことが予想される一人であるところの彼が、職務を放棄して部屋に引きこもり、数ヶ月にわたって廃人になったと仮定すると、彼の会社に多大な迷惑をかけることは必至だ。手前みそで恐縮だが、相方は能力のある男なので、その実力が社会で発揮されないことは、非常に勿体ないと思う。

私の両親と姉は寿司屋を営んでいるが、私が死んだら暫く営業どころではないだろう。そうなると、従業員の皆様と、お客様にご迷惑をおかけすることになる。まず、従業員の皆様の生活に影響が出るのは当然だ。それに加え、うちの寿司を食べる機会を失ったことによる、お客様方の精神的損失を合計して金銭に換算(※1ためいき=1円)すると、手前みそで恐縮だが、小さな地方銀行が破綻する際に出す損失に匹敵すると私は見ている。

私の死はそのように、私個人の損失を生むだけでなく、社会においても様々に損失を波及させていくことが予想される。私さえ死ななければ、将来、心身機能に障害のある誰かが寝たきりを免れ、私は機会費用を回収し、私を知る人々は通常どおり業務に携わって社会に利益をもたらし、相方の会社にも影響なく、私の家族は引き続き寿司屋を営んで人々に喜びをもたらすかも知れない。 私一人の死によってそれらが失われ、多大な被害をこうむる人々が多数生まれるのは、非常に勿体ないことであるし、いたたまれないことだ。こうした影響を考えた場合、私はまだ死んではならない、と思う。

換言すれば、それら生じ得る損失について私が勿体なさを感じ、自らの死がその責任を負っていると思い、「何で死んだんだよ」と人々の恨みをかうことを好ましく思わないという心理がある内は、私は自ら死を選ぶことはないだろう。損失が生じることを勿体ないと感じる、あるいは、人々の非難を受けることを避けたい心理というものは、平たく言えばこの世および自身への執着であり、私の精神の中にその執着が存在していることを自覚している間は、私はおそらく死ぬことはない。 死によって困難から逃れたいと願う意志と、この世への執着とを天秤にかけた結果、執着心が勝利したという、私が今生きている理由はそれだけのことだ。

私は結局、積極的に死ぬに値する理由がないから生きているのではなく、あるいは死を恐れるがために生きているのでもなく、この世への、そして自身への執着によって生きている。そしてその執着のもととなるものは、これまでの人生において自身の関わった、人やモノひとつひとつであることは疑いない。

私が自ら命を絶った場合に生じ得る損失を既に述べたが、例えば私が直接関わっている相方という人間の精神的苦痛だけでなく、彼が廃人になった場合に付随して起こる損失も、間接的とはいえ私が招くものである。つまり相方を通して私は、社会の一部と繋がっている。ある一人の人間は、そのようにこの世の中で、その人間を中心とした巨大なクモの巣の中で生きている。そのクモの巣はまた、他人のクモの巣の一端として存在している。我々はそのようにして、ネバネバと絡み合いながら、この世に絡め取られて生きている。簡単なことでは切れないように、我々は生きている間は細々と糸を出しながら、互いにクモの巣の維持・修復を図り続ける。それは時にしがらみとなって我々を苦しめ、時にある巣との関係を敢えて断とうと思うことさえあるが、全てのしがらみを断ったら巣から落下することを、我々は本能的に知っている。ネバネバと絡み合って息苦しさを感じつつ、時にそのネバネバが快楽を与えてくれることを我々は知っている。逆に言えば、その快楽なしには、こんなネバネバの中で生きていくことなどできはしない。ネバネバの中にいなければ、機会費用を回収して、患者を助けて、給料貰って、たまには美味いものでも食べられるような、そんなささやかな幸せはやってこない。ささやかな幸せは、程度の差はあれこの世への執着を生む。かったりぃなあ、世の中腐ってるよと愚痴を言いながら、それでも我々は糸を出し続けてネバネバした世界をつくり、ネバネバした世界に執着をもち、ネバネバの中で生きる。そうして互いが互いをこの世に繋ぎ止めている。

そして私もこのように生きている――

死んだらどれだけ楽になるだろうかと漠然と考えながら、私はある日、近所のスープカレー屋に一人で入った。数年前にできた店だ。私はそこのカレーが非常に好きで、週に3回くらいは食べている。

その数日前の昼にも入ろうとしたのだが、混んでいて入れなかった。何か久々に入ったような心地がしながら、私はいつものカレーを頼んだ。ややあって出されたカレーは、いつもと変わらず独特のスパイスが効いていて食欲をそそった。一人だったので、私は無言で貪るようにして食べた。本当に美味いと感じた。何と美味いのだろう、本当に。死んだら楽になるの、本当に。こんな美味いカレーが食べられなくなっても?私は無言でスプーンを動かし続けた。その美味さに涙が出そうになったが、店の人の目を気にして涙を堪えて、傍らのティッシュで洟をかんだ。死んだら得られるであろう私の安定は、この一杯のカレーの美味さにすら勝てない程度の価値しか持ち合わせない。くだらないよ、くだらない。私は、皿に残ったスープの1滴までをも飲み尽くした。

勘定をする時、サービスとして100円割引券を貰った。これを使って、次は「ご飯大盛りにしよう」と考えている自分がいた。そのようにして私は、引き続き生きることを選んだ。


2003.7.21


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