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思念No.000 サブタイトル画像


 私が愛してやまない道新の中でも、特に愛するコーナー「ヤングすぺしゃる」、略してヤンすぺ。ここにはローティーンから20代までのヤングによって、若者ならではの懊悩に満ちた投稿が数多く寄せられており、毎週目が離せない。悩む彼らはアホらしくも真剣、レスを返す彼らは真摯かつ概ね見当違い、という非常にまったりとした紙面に仕上がっているのだが、その中に15歳の読者(性別は不明だが文面から女子と推定)による、次のような投稿があった。以下、抜粋する。

「いつも思うのですが、学校のテストって何のためのものなのでしょうか。弥生時代の人の服装とか、原子と分子のことなんて、普通の大人はほとんど使わない知識ばかりではないですか。勉強しなきゃいけないことは他にあるのでは。
『98点。頭いいね』
『7点。頭悪いね』
という会話をよく聞きます。点数で人の価値が決まるなんて間違っていませんか。点数が悪くても頑張り屋や優しい人、物知りな人はいます。テストではその人の『中身』が見えません。
 だから成績が悪い人が行く学校だって、すごい個性の集まりかも知れないのです。無理をしてまでランクの高い学校に行かなくても良いと思いませんか。」

散漫な文章であり、論点がぼやけているが、この投稿者の主張をまとめると以下のようになる。

1.テストで問われる知識は、(おそらく日常生活において)大人は殆ど使わないものであり、学ぶ意味がない。
2.点数で人の価値が決まるのはおかしい。
3.無理をしてランクの高い学校に行く必要はない。

 1は後に回し、まず2の主張について検証したい。
投稿を読む限り、「点数で人の価値が決まるなんて間違っていませんか」という主張の根拠となっているのは、「点数ではその人の中身が見えないから」というものである。 点数ではその人の中身が見えません、というのは、給与明細ではその人の趣味が分かりません、と言っているのに等しい。つまり当然のことである。従って、「点数では人の中身が見えない」という主張は正しいが、しかし「だから点数で人の価値が決まるのはおかしい」と続ける展開には無理がある。

よく勉強ができる人は、必ずその人格も優れている、という見解が論理的に間違っているということは、理性ある大人ならば誰でもわかることだ。従って「98点。頭いいね」と大人が言う時の「頭いいね」とは、文字通り「よく勉強ができるね」という意味に過ぎず、そこに人格その他の話題は含まれないのが通常だ。しかし、投稿者は「98点。頭いいね」という会話を、あたかも「頭がいい=人間として価値がある」と言われているかのような錯覚をしている。 投稿者の周囲に、「98点。頭いいね」という言葉において、人格までも評価するような妙な見解をもつ人間ばかりがいるのなら、投稿者の錯覚もやむを得ない。しかしそうではなく、 評価されているのが、あくまで学力のみであるにも関わらず、この投稿者が「頭がいい=人間として価値がある」という意味だという誤解をしているとすれば、投稿者自身が既に、学力に関する頭の良さと他の価値とを混同していることになる。

 そもそも、「学校のテストって何のため?」という疑問――これは、わが国の選抜制度に対応するためという以外の説明はない。そして大学入試に代表される選抜制度は、この社会の水準維持のために必要不可欠なものである。陳腐な例だが、人柄が良くても知識の不足した医者には誰もかかりたくない。だから医者になろうとする人間は、難しい試験をクリアしなければならない。医者にならない、ごくありふれた職業に就こうとする人間も、関係する選抜基準が厳しいか緩いかの違いだけで、等しく選抜制度からは無縁ではない。選抜制度がなくなり、どのような人間もがどのような職業にでも就くことが許された場合、社会は崩壊する。社会の一定以上の水準を保つためには、選抜制度はどうしても欠かせないシステムなのだ。その高水準な社会の恩恵を受けようと思うのであれば、そのシステムに甘んじるべきである。

 テストで問われる知識も、そのシステムを成立させるための要素という一面を有している。普通の大人は殆ど使わない知識、なるほどそうであろう。私も、受験時代あんなにも苦労して覚えた溶解度の計算方法でさえ、今は完膚なきまでに忘れ去っている。日常生活でも全く使うことはない。投稿者の周囲の大人も同様であろう。しかしながら、そうした理由で歴史や化学の知識は日常生活において必要ない、だから勉強する意味がない、と主張しているのだとすれば、この投稿者は日常生活にのみ価値を感じていることになる。それは投稿者の価値観であり、批判すべきものではないが、その日常生活を成立させているのも、選抜システムによって水準の保たれた社会であるということに、この投稿者はおそらく気付いていない。

 学校で学ぶ知識は、知識であると同時に「選択肢」であると私は考える。つまり教育とは、選択肢を与えることであると。膨大に提供される知識の中から、必要なものとそうでないものを、その後の人生で取捨選択してゆくのは、個人の裁量に委ねられるものである。私は、溶解度の計算方法は、私の人生において大した意義をもたないと感じたため忘却した。しかしながら、「溶解度の計算方法という知識がこの世には存在する。その知識を自分のものにするか否か」という選択肢を与えられたことには満足している。

15歳までの子供のその後の人生において、何が必要で何が必要でないかなど判断できる大人はいない。大人にできるのは、知識という名のあまたの選択肢を提供することだけだ。そしてその選択肢は、その後の人生設計を選択するためのものでもある。つまり、入りたい学校、就きたい職業に出会った時、それを選択できる能力(=選抜制度に対応できる能力)を子供に与えてやるのが義務教育である。15歳までは、知識を取捨選択する段階にはなく、選択肢を目の前に広げられている段階にあるのだと私は思う。「勉強しなきゃいけないことは他にあるのでは」と投稿者は言う。「他」とはどのようなことを指しているのか不明だが、学校で学べること以外にも学ぶのは確かに自由である。しかし、目の前に広げられた膨大な選択肢を差し置いて、もっと他に勉強すべきことがあるとみなすのは早計である。15歳の投稿者のこれからの人生において、取捨選択をする機会はいくらでも訪れる。一方、黙って座っているだけで選択肢を与えられる機会は、はるかに少ない。その事実を幼い投稿者は知らない。私も15歳の時は全く知らなかった。

3の、「無理してランクの高い学校に行く必要はない」とする主張だけは一理ある。選択肢を十分に得たなら、後は好きにすれば良いからだ。成績の良くない人々の行く学校が、個性の集まりであるかどうかは議論の余地があるが、自分の望む学校に入ろうとするのが筋であろう。ただし、教師や親は、子供を少しでもレベルの高い学校に行かせようとするものだ。それは、レベルの高い学校が、子供により多い選択肢(具体的には、進学できる大学の幅が広がるということ)を提供してくれると考えているからである。実際どうであるかは別として。


以上、中学生の投稿に対して大真面目に考察した次第だが、私が真に批判したいのはこの中学生と言うよりは、この中学生に「点数ではその人の中身が見えません」などといった、中途半端なヒューマニズムに毒された思想を提供している、昨今の教育のあり方である。相対評価はやめて、どんな生徒の「頑張り」をも認める絶対評価にすべきだ、徒競走は最後は手をつないでゴールすべきだ、といった中途半端な平等主義は何をも生み出さないということは、しばしば言われている。繰り返すが、この社会は選抜制度によって成り立っているといっても過言ではない。そしてどの人間もその恩恵を大なり小なり受けており、それを否定するかの如き平等主義は社会の破綻を招く。

昨今の、選別や序列が悪いことであるかのような風潮は、いつ頃から生まれたものなのだろうか。この中学生は、点数では人の中身が見えないという。点数が悪くても、頑張り屋や優しい人はいるのだと。なるほどそうであろう。しかしその、頑張り屋であるという属性、優しいという属性も、他との比較による相対評価を受けて成り立っているものだ。評価基準が主観か客観かという違いだけで、そこには明らかに序列があり、選別がある。そんな現実を無視して、形ばかりの平等を説く教育を施した結果、勉強する意味もわからないくせに、勉強したくない言い訳に「点ではその人の中身が見えません」などという屁理屈を吐く中学生が生まれるのだ。

平等であるべきは、極言すれば、生命の保証と機会の提供だけであると私は考える。選抜から洩れた人間でも、少なくとも生きてゆくことだけはできる社会。そして、選抜に挑戦する機会は平等に与えられる社会。これがあるべき社会の姿ではないだろうか。君もこの社会で生きていきたいのであれば、文句言わずに勉強して良い成績をとりなさいと、私はこの投稿者に向けて、小一時間ほど拡声器で喋りたい。自分に向けても。




2002.12.30

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