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私は長い間、そのことを心の片隅に引っ掛けたまま、その男と付き合い続けていた。
そのことがあった時に、即座に男の真意を確認するべきだったのだが、状況がそれを許さなかった。従って、私は普段はそのことを意識しないようにしつつ、そのことが時と共に心の中で風化してゆくのを待っていた。しかし、心の中に生じたわだかまりは3年という月日を経ても、確かに私の意識の内に存在し続けた。
くだらないことだとは思った。あの時は男も私も今よりは確実に若く、互いに恋愛経験も少なく、互いを思いやる心よりは、自分を理解されたいと願う気持ちの方が勝っていた。男は3年という月日の中で、私との間で多くの葛藤を経験しながら、確実に以前よりも大人になっていた。そして私も――いや、私はどうなのか。私自身は、あの頃とまるで何も変わっていないのではないか。その証拠に、私はそのことについて、3年を経た今でもしつこく考え続けているではないか……ひとところに立ち止まった私と違い、男は確実に成長している。今の男であれば、あの時のようなことは言わないに違いない。きっとそうだ。そして、今、この場であの時のことを問いただせば、きっと言うに違いない。悪かった、許してくれ、と。
交際3年を記念しての食事の席で、私は酔ったふりをして、テーブルを挟んで向かい合った男に尋ねた。
「初めてデートした日のこと覚えてる?」
男はやや照れながら微笑んで、覚えているよ、と言った。
「天王寺公園に入ろうとしたら休園だったのよね」
遠い目をして私は続けた。
「そうだね」
「だから近くの神社の境内に移動したのよね」
「そうだったな」
「そこで私が付き合うことオッケーしたのよね」
「うん」
「その後フェスティバルゲート(注:天王寺にあるアミューズメント施設)に移動したのよね」
「そうだったな」
「そこで指輪を買ったよね」
「うん」
「その後喫茶店に入ったよね」
「よく覚えてるな」
「私が何を飲んだかまで覚えてるよ。レモンスカッシュ」
「俺はクリームソーダだった」
「甘党だなって思ったわ……」
違う、こんなことを確認したいのではない……私はやや苛立ちを覚えつつも、それを隠して続けた。
「その後ホテルに行ったよね」
「早かったよなあ」
「こういう時、すぐオッケーする女ってどう思う?とか何とか、私訊いたよね」
「別に何とも思わないって答えたっけな」
「それは嘘よね」
「うん。嬉しかった」
その時の男の、快心の笑顔を私は忘れない。しかし、私が尋ねたいことの核心にはまだ触れていない。私は続けた。
「で、ホテルに入ったでしょう」
「うん。○○ール(注:ホテル名)な」
「ベッドの上に座って、少し話したよね」
「したな」
「その後キスしたでしょう……」
私は、長い間のわだかまりの、そのもとへと触れようとしていることに、胸が高鳴るのを感じた。
「あなたが、最初にキスをしてきた……」
「うん」
「その後、私もキスしたよね」
男は照れ笑いを浮かべている。その表情が、これからどう変わるか。
「その後、あなたなんて言ったか覚えてる?」
「なんか言ったっけ?俺」
ああ、この男はそのことを忘れていた。男にとっては、そんな些細なことに過ぎなかったのだ。予想はしていたものの、私は少なからず落胆した。しかし、ここでくじけるわけにはいかない。私は、わざとゆっくりと言った。
「俺の方がキスは上手いと見た、と言ったのよ」
俺の方がキスは上手いと見た――
なんという恥ずかしい台詞か。その日付き合うことが決定し、これから初めて肌を合わせようかという相手に向かって、自らのキスのテクニックを誇示するが如き、その姿勢。何より、私が行った「キス返し」が、まるで下手クソだと言わんばかりの失礼千万な態度ではないか。私はその台詞を言われた時、一瞬違和感を覚えた。しかし状況が状況であるだけに興奮によってその疑問はかき消され、我々はそのままその後の展開になだれ込んだのだった。
後に冷静になってその時のことを思い出すだに、私の中で疑問が大きく膨らんでいった。失礼というよりは自意識過剰とも呼ぶべき、男のあの時の台詞が脳裏をよぎる度、怒りというよりはむしろ不安がつのった。私が付き合っている男は、実は相当におかしな奴ではないのか、という不安である。あの状況で、自らのキスのテクニックが上手い、ということを宣言するのは、人格が破綻していると言っても過言ではない。初デート、初ホテルである。加えて、私はこれから真剣に交際しようとする相手であり、男は交際を申し込んだ側である。これらの設定において、最初のキスの直後に
「俺の方がキスは上手いと見た」
どう考えてもおかしい。ゆきずりの遊び相手ならともかく。もしかして私、遊ばれてる?いや、3年も遊び続けるのは明らかに不自然だろう。それに3年の年月の中で、男は誠実に成長している。それは私が一番よく知っている。最近では将来の話も出てきた。あの時の台詞は、若さと興奮ゆえの、ちょっとした過ちだ。そうに違いない。いやしかし――この男が実は文脈を読む能力において致命的な欠陥を有しており、あの台詞がその片鱗を示すものだとしたら……
恐ろしい。恐ろしい。
男よ、どうか言ってくれ。「悪かった、許してくれ」と。私はそんな悲壮な願いを内に秘め、男の反応を待った。
「えー、俺、そんなこと言ったかな?」
「言ったよ!絶対に言った!!」
ここで水掛け論に持ち込まれては困るのだ。何としても男にその時の記憶を甦らせねばならない。私は「言った」と断言した。
「あー、言ったような気もするなあ」
「どういうつもりでそう言ったわけ?すっごい変な台詞じゃない?それ」
「ごめんよう…だって、お前の前の彼氏よりは上手いだろうって思ったんだもん」
……なに?
私は、耳に不自然な引っかかり方をする文節があることに気付いた。
「……ごめん、もっかい言って」
「だから、お前の前の彼氏よりは上手いだろうって思ったの!」
「……私でなくて?」
「なんでお前より上手いなんて言う必要があるんだよ。俺、そんなこと言うわけ無いじゃん」
私は眩暈を覚えた。
「……私のことじゃなかったんだ……」
「キスする前に、ベッドに座って話したろう、その時にお前の前の彼氏のこと喋ったじゃないか」
言われてみれば、確かに我々は、私の過去の恋愛についての話をその前にしていた。 「前の彼氏よりも、幸せにしてやる」。男はその時私に向かい、そう言っていた。
「そうだったね……」
「そのすぐ後にキスしたんだぞ。普通、前の彼氏と比べてるってわからないか?」
「私のことじゃなかった……」
「んな失礼なこと、言うかよ普通」
「今の瞬間まで、私のことだと思ってた」
テーブルに倒れ伏す私に、男は心底呆れたように言った。
「お前、文脈読めよ……。」
2002.10.14
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