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思念No.003 サブタイトル画像

 旧サイトで、「自分のことを名前で呼ぶ女が嫌いだ」というタイトルの文章を書いた。成人しているにも関わらず、恥ずかしげもなく「○○子ねぇー」「○○美さぁー」などと、一人称を名前にする女が私の癇に障るのは何故か、ということについて分析した内容のものだ。

 自分のことを名前で呼ぶということは即ち、自らを固有名詞で呼ぶことになり、その場における他者との区別を、人格ではなく名前に頼っていることになる。他との差別化を記号に頼るような脆弱な自我しか持っていないにも関わらず、それに恥じ入ることもせず「私はここに存在しているの」と声高に喚くが如き、その甘えた姿勢がむかつくんじゃあぁ!!…と、私は旧サイトではこのように書いた。

しかしながら、自分でもこの考えにどこか納得しきっていないところがあった。問題の本質は、果たして固有名詞云々だけのことなのか。自分のことを名前で呼ぶ女に対する、私の憤りの奥底にあるのは、もっと違うもののような気がする――

私は問題の本質を探るべく、試みに自分のことを名前で呼んでみた。

「かりんこねえ……」

総毛立った。

何という似合わなさだ。私は女にしては声が低い方で、決して可愛らしい感じの響きはない。そんな声で、自らのことを幼女のように名前で呼んだりするのは、全く似つかわしくない。あー気持ち悪い。

「幼女のように」と書いたが、自分のことを名前で呼ぶ女に私がむかつくのは、出るとこ出て、くるものきているくせに、子供のような言動をとって周囲にアピールする姿勢が、ただ単に不愉快なだけだということも否めない。しかし、この試みでわかったことがひとつある。それは、自分のことを名前で呼ぶと、自らが「かりんこ」であることについて、妙に客観的になるということだ。

例えば、不意にケーキが食べたくなった時、普段ならば私は
「あー、なんか私ケーキ食べたい」
と言う。主語が「私」である場合、ケーキを食べたいと感じているのは紛れもなく私であり、他の何者でもないという、そのことに何の疑問も生じない。しかしながら、ここで
「あーなんか、かりんこケーキ食べたい」
と言ってみた場合、ケーキを食べたいと欲している「かりんこ」という人間とケーキを欲するその状態が、私自身のことであるにも関わらず、他の第三者のことを言っているような感覚が生じるのだ。

これは奇妙な感覚である。自分ではない「かりんこ」という人間について、「かりんこは、ケーキが食べたい」と誰かに説明しているような心地だ。「かりんこは」と言った瞬間、私は私自身がどこかへひょいと隠されてしまったような気がした。そう、自我が消滅してしまった、そんな感覚だ。

自我の発達が未熟な幼い子供の場合、自分のことを名前で呼ぶことは多い。それは親から、
「ひろくんは、どうなの」
「まりこちゃん、おねんねしましょうね」
といったように名前で呼び掛けられ、自らが「ひろくん」「まりこちゃん」であることを刷り込まれてゆく過程にあるためだろう。自らを、親に習って「ひろくん」「まりこ」と呼ぶ子供は、そのようにして自己と他とを区別している。やがて精神的に成長し、自分というものを自力で意識するようになるにつれ、「ひろくん」は自らを「僕」と呼び、「まりこちゃん」は自らを「私」と呼ぶようになってゆく。

自分を名前で呼んだことで私が覚えた違和感は、自我の発達が未熟だった子供の頃の感覚が戻ったことによるのかも知れない。確かに、「かりんこねえ…」と言った時、妙に自分が幼くなったような、頼りなげな感じがした。

そう考えると、大人になっても自らを名前で呼ぶ人間は、まだ自我の発達段階にあるのだろうか。そうした人間が子供っぽく感じるのは、子供のもつ未熟な自我をそこに見い出すためだろうか。この理屈に従えば、旧サイトで脆弱な自我が云々と書いたことと繋がる部分もある。

しかしながら、正常な精神発達を遂げていれば、成人してなお自我が確立されていないことは考えられない。ということは、自分を日常的に名前で呼ぶ人間は、年相応に自我をもちつつも、それを明確に意識することを無意識に避けようとしているのだろうか。なるほど、自分を自分として意識し続けるという作業は、時に過酷なものだ。自我というものから解放されれば悩みも苦しみもなく、かなり楽なことは間違いない。しかしながら、それは甘えである。私の苛立ちは、その甘えに対するものだという気がする。そして殊更女にむかつくのは、そうした甘えを許すことを周囲の人間に求めて憚らない図々しさに、同じ女として不快感を覚えるためかも知れない。

もっとも、普段私が自分を「私」と呼んでいるから、自分を名前で呼んだ途端にそのような違和感を覚えたのであり、普段から自分を名前で呼んでいる女は、私が感じたような感覚はもっていないことも考えられる。そこのところどうなんだ、と問い詰めてみたいような気がするが、基本的に自分を名前で呼ぶ女は嫌いなので二の足を踏む。だって可愛い子ぶっててむかつくじゃん。羨ましい。って、ああ、単に、自分にない佇まいが羨ましいのか私は。結局のところ。

2002.10.13

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