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試験の結果が貼り出された掲示板の前で、私は自分の出席番号に「再試験対象者」を示す意味の赤線が引かれているのを呆然と見つめていた。
「なんで……」
消え入るような声で一言発し、私はその場に長い間立ち尽くした。
その科目は――臨床心理である。私はその試験の、1問目の「エリクソンの精神発達理論に基づき、自分の青年期の発達を分析しなさい」という問題に対する解答が、不十分であったという理由で再試の対象とされたのである。
完璧に書けた自信があった。それなのに。私は自分の置かれた状況を受容できないまま、フラフラとその科目の担当教官の部屋へと向かった。
「再試験のことについてお伺いしたいのですが……」
自分でも声が小さくなっているのを感じながら、私は瞬きしないで先生に尋ねた。年の割には若く見える男の先生は、無表情に私を見つめ、
「きみ、誰?」
と言った。
「作業療法学科2年の○○です」
私が名乗ると、先生は私から一瞬視線を逸らし、「ああ…」と何か思い出すように呟くと
「再試のこと?なに?」
と不機嫌に問い返した。
「いえ、その前にお伺いしたんですが…何故、再試なのでしょう…」
長い学生生活の中で、初めてする質問だった。
「それは、掲示にも書いた通り、1番の問題の解答が不十分だったからだよ」
「……どの点がいけなかったのでしょうか……」
「それは、答えを教えることになっちゃうから、言えないよ」
「……」
私はおそらく青ざめていただろう。学生から同様の質問を何度も受けているであろう先生は、きっぱりと次のように言った。
「いいかい、エリクソンの理論に基づいて分析するんだよ。自分がそれぞれの発達課題を乗り越えられたかどうか、照らし合わせて分析しなくちゃいけないんだよ。自分勝手な分析をしないでね」
最後の言葉で、私は何故自分が再試験の対象になったのかを理解した。もはや言うこともなく、再試験の内容等を確認すると、失礼します、と部屋を出た。
エリクソンの発達理論というのは、要約すると次のようなものだ。
人には乳児期から晩年期までの発達段階があり、それぞれの段階で、乗り越えるべき課題を有する。その課題を無事に乗り越えた者は、次の発達段階へと移行できるが、その課題でつまづいた者には、社会不適応などの問題が生じる――12歳から22歳までの青年期の課題は、否定的自己像の受容、友人や恋人との親密な関係の形成、自我同一性の確立、などである。この理論に基づき、自分の青年期はそういった課題を乗り越えることができたか否か、ということを分析するのが1問目の問題だったのだ。
私は、そういう長文記述式の問題は、これまで得意中の得意としてきた。今回も、解答用紙に向かうや否や、全くペンを止めることなく、よどみなく書き綴った。中学から高校、そして大学へと進学する中で、自分がどのように自分をとらえ、どのように葛藤し、仲間を得てどのように「課題」を克服し、今に至るかということを。結論も、「…以上のことから、青年期の課題を乗り越えることができたと思われる」ときちんと書き、軽く自己陶酔を覚えながら、他の問題に取り掛かったものだ。
しかし先生にとって見れば、それは0点の答案だった。無理もない。何故なら私は問題文の「エリクソンの精神発達理論に基づき」というポイントを完全に見落としていたからである。私はエリクソンの理論に基づいているつもりが、実は参照しているに過ぎない分析を行ってしまったのだった。先生が求めていたのは、私の伝記でもなければ、面白い読み物でもない。あくまで、エリクソンの理論と照らし合わせて、自分の青年期はどうなのか、という文章を私は書かねばならなかった。しかし私の書いたものと言えば、自分なりのあやしい分析による、独り善がりな自伝でしかなかった。エリクソンの理論に登場する用語は、あまり含めていないかも……とは書きながら少し思ったが、いいや、こんな深い分析に基づく、他の人とは一味違う「読ませる」答案を書いておけば、先生もきっと感服して丸をつけてくれることだろう、と私はそのまま突っ走ってしまった。
その結果が、きっちり再試である。
私は、文章というものに対する自分の驕りについて、深く反省した。薄っぺらい自己顕示欲に支配され、求められたポイントを何一つ押さえることなく、トチ狂った答案を仕上げてしまった己の愚かさを痛烈に嫌悪した。心の底から馬鹿者だと思った。
いつの間にか自分のサイトの文章も、何かそういう的外れで薄っぺらいものになっていたのでは――悪夢のように押し寄せる自己嫌悪の中、ふと、そう思った。
その試験のように、文章を書くにあたって「自分の書いたものを疑わない」という、驕り高ぶった姿勢は、私の中に確実に芽生えつつあった。「旧 誰がためにかりんは鳴る」が、徐々に多くの人々の目に触れるようになり、書いた内容が評価されてゆくに従って、私は自らの文章作成能力および考察について過信するようになり、内省的になることを忘れていった。サイト管理者は、もっと内省的であるべきだとか偉そうに書き綴っていた割には、私は己の足元さえ見えなくなっていた。今回、再試をくらった試験の答案だって、内省的になりながら書いているつもりが、実は技巧に走っただけの、体裁を取り繕ったものに過ぎない(しかも思い返せば、大して上手くない上に痛い)。
試験の文章は、他人から求められたポイントを押さえて書くものであり、私のサイトの文章は自ら設定したテーマについて、独自の考察に基づいて書くものである。二つの文章は出発点も目的も異なるために、並べて考えるには一見、無理があるように思われるかも知れない。しかし、いずれの文章においても、中心となる論点がぼやけたものになることは極力避けねばならないことは共通している。論点がぼやけているにも関わらず、それを疑わずにそのまま他人の目に晒すというのは、恥ずべき姿勢だと私は思ってきたはずだった。それを忘れていた上、何より、少しばかりアクセスが伸びたからといって「私は文章が書ける」と、自負を通り越して天狗になりつつあった己自身を、私は心底情けなく思った。
私は自分の文章を読み直し、旧サイト末期の文章は、論点もへったくれもなく、読み手のウケを意識しただけのものになっていたことに気が付いた。文章を書く練習をする、という目的で立ち上げたサイトだったが、私はいつの間にかその初心をすっかり忘れてしまっていたのである。これはいかん、と思った。
そういう理由で旧サイトを閉鎖し、もう一度、文章の練習をするために、新サイトを立ち上げることにした。今後は、以前の日記よりも時間をかけて丁寧に書いた文章を、ゆっくりとアップしてゆくことにしたい。しかし、サイトを立ち上げたもう一つの理由である「自分の話を心置きなくできる場所の確保」という側面も残したいと感じたため、あまり形に拘らない気楽な雑記をトップに載せ、それは毎日のようにちまちまと更新してゆくつもりである。
……まあ、つまりは再試に引っかかったショックで閉鎖したんだろ、と言われればそれまでなのだが、自らの文章に対する姿勢を見直すという点では、良い機会になったと思っている(因みに再試験には無事合格)。以上、旧サイト閉鎖に関しての、恥ずかしい経緯についてのこの文章を「思念」の一番目に置いておくことで、自らへの戒めとする次第である。あー恥ずかし。
2002.09.25
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