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5月29日 「宇宙からの脱出」
――私がこんな状態になったので、娘のところに主人を預けてあります……そう、主人は家のこと一切やらないものですから。でもね、あの……娘も障害者なんですよ。6歳の時に、弟が用水路に落ちてびしょ濡れになって帰ってきたので、畑にいる私に教えようと思ったんでしょうね、線路に飛び出して、汽車に轢かれて……片脚を失ったんですよその時ね。
傷が化膿したら死ぬって言われていたんですけれど、どうにか助かって……それから義足をつけようとしたんですけど、義足って重いんですよね。それが辛いというので杖を使って、最初は両手に杖を持っていたんですけれど、それじゃ手が使えないというので、じきに杖を一本にしてね。飛んで歩いて、何でもしましたよ。結婚ですか?ええ、娘は結婚して子供も二人できましたよ。孫たちももう大きいです。また娘の旦那さんが、とても良い人でね……――
新しい患者さんから、思いがけず壮絶な話を聞いて、私は呆然と相槌を打つ他なかった。片脚で逞しく生きているであろう、その婦人のキーパーソンたる娘さんの姿を思い、穏やかな老婦人の過去に計り知れない厚みを感じた。息子たちはアテにならないので、何でも娘に頼っている、と婦人はこともなげに言った。
どうしてだか、帰宅途中の地下鉄の中で、最近自ら命を絶った美人アナウンサーのことを私は思い出した。彼女をテレビで見た記憶はないけれど、インターネットの画像で見る彼女はとても美しかった。私と年齢も近い。若い、美しい、人生これから、五体満足で……と断片的な言葉を繋ぎながら、同時に、今日聞いた患者さんの娘さんのことを、汽車に轢かれた日のことを何となく想像した。
世の中にはもっと辛い人がいっぱいいるのに、仕事上の悩みなんかで、若い身空で自殺するのは愚かだ、という彼女への批判的な意見がぼんやりと頭をかすめた。確かに愚かかも知れない、彼女には多分、丈夫な両脚があり美貌があり……。しかし、そんなものは彼女にとって何ら心の支えにもならなければ、死を思いとどまる要素のひとつにもなりはしなかったのだろう。人間の不幸とは、不幸の自覚とは、他人のそれと相対的に成立しないことが多い。つまり人が自分を不幸だと思う時、その感覚は極めて絶対的で、他との比較によって揺らぐものではない。世の中にはもっと辛い人がいる、だからあなたも頑張れ、という言葉に納得できるかどうかは、悩む本人自らが、その不幸を相対化しようという試みをした場合にのみ可能となる。他人に言われてどうにかなるものではない。
身体障害にしてもそうで、どんなに麻痺が軽度でも本人がそれを不幸だと感じる以上、「あの人よりは軽度だから良かったじゃないですか」という慰めは何の役にも立たない。本人自身が「まだ軽いから良かったわ」と言えない限り、その障害を不幸だと思う状態からは抜け出せない。最近そのことをよく感じる。
ただ興味深いのは、幸福感もまた絶対的な部分があるということだ。不幸に比べて相対化されやすいものではあるが、他人には計り知れない自分のみが知る幸福というものも確かに存在する。絶対的不幸の大宇宙に漂ってしまった人を救えることがあるとすれば、実はこの、自分のみが知る幸福に目を向けてもらうことしかないのではないか。自らの不幸を救えるのは自らの幸福しかないという、考えてみれば当たり前のこと。ただこれは難しい。「あの人よりは幸せ」なのだから生きろと言うのは簡単、「あなたは幸せ」なのだから生きろというのは、その人自身をよく知らなければ言えない言葉だ。そして、そう言ってくれる存在を持つことこそが、実は一番幸福なことかも知れない。
若くして逝ってしまった彼女には、そういう人はいなかったのかな。そんなことを思った。
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